町指定重要文化財
史 跡
橋本荒神塚
指定年月日|昭和41年4月12日指定
所 有 地|里 山 田
所 有 者|橋 本 組
両袖型の横穴式石室をもつ、高さ5m、径20mの円墳。羨道(玄室までの通路)の長さ1.2m、玄室の長さ5.85m、幅2m。石棚の幅1.4m。構築年代は古墳後期(6~7世紀)である。
玄室の奥壁部・高さ1mのところに、奥行1.5mの石棚が付設してある。この石棚は石室の補強とか、棺または副葬品をおいたとの説がある。石棚のある古墳は和歌山県と九州地方に多く分布しており、岡山県下では5例のみが知られている。
白江弥生時代後期集団墓地跡
指定年月日|昭和41年4月12日指定
所 有 地|中
所 有 者|中財産区ほか
弥生時代後期の共同墓地の遺跡である。一ヵ所からはっきりしたもので29基、不明瞭なもの1基をあわせて30基が発見された。
2基並列のものが多く、木棺を使用していて、葬送の際の器具も焼却している。約2mの墓域の境界に溝を掘り、土器を併列していることが判明した。
当時の人たちは、既に共同で農耕生活を営んでいたらしく、墓地も共同墓地を作り、各グループごとに埋葬の儀式をしていたと推定される。
この墓地跡の出土品は、倉敷考古館に所蔵されている。
吉備公ゆかりの地
指定年月日|昭和48年4月11日指定
所 有 地|東 三 成
所 有 者|吉備保光会
東三成の藤之棚瓦谷に、屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、このあたりから奈良時代の瓦片が出土している。(平瓦:平城宮6663型式。軒瓦:平城宮6625型式など)
ここは、吉備公館址と称され、下道氏の館址と伝えられているが、ここに、下道氏墓所を祀る寺院があったとする瓦谷廃寺跡説もある。現在、吉備大臣宮として祭祀されている。
小迫大塚古墳
指定年月日|昭和48年4月11日指定
所 有 地|南 山 田
所 有 者|南山田財産区
両袖型の横穴式石室をもつ、一辺23~27mの方墳。現存石室全長10.7m、玄室の長さ6.5m、幅2.4m、高さ2.3m。羨道の長さ4.2m、幅1.8m。構築年代は古墳後期から末期と考えられる。
周囲に空濠があり、石室は南に開口する。羨道の最前部は一部破損しているが、内部遺構は完全に保存されている。天井の四枚の巨石、奥壁の岩は見事な一枚石である。
町内の古墳のうち最大のものである。
三成陣屋址 義倉址
指定年月日|昭和50年3月31日指定
所 有 地|矢 掛
所 有 者|個 人
陣屋とは江戸時代、地方支配のために設けた代官の屋敷・住居のことをいう。
三成陣屋は幕府領の陣屋から、庭瀬藩の陣屋へと変遷はあったが、江戸時代のこの地域の地方支配の拠点であった。
義倉は江戸時代、備荒貯蓄のための倉をいい、三成陣屋の前に設置されていた。
光助霊神宮
指定年月日|昭和63年9月19日指定
所 有 地|東 三 成
所 有 者|圀 勝 寺
元禄12(1699)年に、東三成の丘陵地(下道氏の墓域)より、吉備真備の祖母を火葬にして埋葬した銅壺(銅製の骨蔵器)ならびに霊骨が発見された。それを受けて、享保12(1727)年、時の領主庭瀬藩主板倉昌信は、同家の祈願所の中蔵坊の境内に社殿を設け、この銅壺を安置した建物のことである。享保13(1728)年には京都の吉田家から神号が与えられて、この社殿を「光助霊神宮」と称するようになったもの。
なお、享保15(1730)年・中蔵坊は、下道圀勝の名前にちなみ、圀勝寺と改称された。
また、この光助霊神宮は平成18年に建替られた。
高札場
指定年月日|昭和56年3月24日指定
所 有 地|横 谷
所 有 者|個 人
江戸時代、支配者が法度・掟などを墨書して交通量の多い四辻などに、目の高さぐらいに掲げた木札を高札といい、常設の高札場も多かった。
町内では、この1棟のみ現存している貴重なもので、江戸時代の場所より20mほど南に移されている。
猿掛城跡
指定年月日|平成8年4月1日指定
所 有 地|横 谷
所 有 者|国
標高239mの本丸跡が南端にあり、北に向かって二の丸跡、三の丸跡、井戸跡、大手門跡、四の丸跡、馬場跡、五の丸跡、六の丸跡、太夫丸跡、寺丸跡と下って平林口に至る。
築城年代は庄家長が元久2(1205)年、源平合戦の軍功により地頭として赴任し、その後間もなく、山上に土塁を築いたのが始まりと考えられる。
その後、庄氏が松山城(高梁)に本城を移した後、この庄氏を滅ぼした毛利元就の四男・毛利元清が領主として猿掛城へ入城する。
天正10(1582)年の備中高松城水攻の際にはこの猿掛城は毛利輝元の本陣として歴史に残ったが、翌・天正11年には毛利元清は茶臼山城(東三成)に移って間もなく約400年この山城は実質上廃城となり、(江戸時代初期に入封した花房志摩守は実際は使用せず)現在は城跡のみ残っている。
洞松寺
指定年月日|平成16年8月2日指定
所 有 地|横 谷
所 有 者|洞 松 寺
洞松寺は曹洞宗の大禅寺で、室町時代初めに喜山性讃という名僧が開山した。猿掛城主庄氏や毛利氏の帰依をうけ、最盛期には備中国を中心に1200の末寺を従えた中本山として栄えた。現在の境内には町内最大規模の本堂をはじめ、山門、庫裏、坐禅堂、鐘楼などが今に伝わっている。
洞松寺は古文書をはじめ多くの文化財を保有し、室町時代から安土桃山時代にかけての矢掛町の歴史を考察する上では欠くことのできない史跡である。
神戸山城跡
指定年月日|平成20年2月25日指定
所 有 地|小 田
所 有 者|個 人
室町時代初期の応安2(1369)年に床上小松秀清が、小田・甲弩・山口・新賀の地頭職を命ぜられ、京都より来て、築城したと伝えられている。秀清の子、康清は姓を「小田」と改め、その後、小田氏7代226年の城として地域支配の要となった。本丸跡、二の丸跡、馬場跡、三の丸の郭跡が残存している。
室町時代の歌人正徹は二代康清の弟である。