町指定重要文化財

石造美術

毛利元清 宝篋印塔

指定年月日|昭和33年9月25日指定
所   有   地|横     谷
所   有   者|  寺

花崗岩製。基礎高26㎝、塔身16㎝、笠26㎝、相輪40㎝、基壇69㎝。全高177㎝。毛利元清の石造宝篋印塔と伝えられている。毛利元清は慶長2(1597)年に芸州桜尾城で没しているので供養塔である。

相輪の上部と隅飾の一ヵ所に欠損がみられるが、他は、よく原型をとどめている。基礎が二重となっていて、その上辺に反花座を基礎に格狭間を設け、笠の隅飾は突起の先端がやや外側に傾いている。

桃山から江戸初期の形式である。

石造 宝篋印塔

指定年月日|昭和33年9月25日指定
所   有   地|横     谷
所   有   者|  寺

花崗斑岩製。基礎高35㎝、塔身24㎝、笠27㎝、相輪40㎝。全高126㎝。室町時代のものと推定され、猿掛城主庄元資の宝篋印塔と伝えられている。

相輪の上部および隅飾の先端が欠けている。その隅飾は大きく直立していて、格狭間や蓮弁などの装飾がなく、宝篋印塔として主体部分のみの簡素な古調を残している。

高草石見入道宝篋印塔

指定年月日|昭和35年8月30日指定
所   有   地|里 山 田
所   有   者|長 泉 寺

花崗岩製。全高380㎝。基礎高78㎝、塔身86㎝、相輪130㎝、笠86㎝。ほぼ完全に原形を保ち、長大・豪壮である。塔身の四周には四仏の梵字を刻み、月輪で囲んでいる。蓮弁・格狭間の装飾がなく、宝篋印塔の特長を完全に残している。基礎部分の前面に「高草弾正子石見入道」の銘があり、室町時代の作と推定される。

石造捧澤寺宝篋印塔

指定年月日|昭和35年8月30日指定
所   有   地|東 三 成
所   有   者|捧 澤 寺

花崗岩製。全高155㎝。塔身に梵字が刻まれているが、風化して読むことができない。塔の各部は均整がよくとれていて、形態などからみて鎌倉時代の作と推定される古い宝篋印塔である。隅飾の上部がいずれも破損している。

浪形岩常夜燈

指定年月日|昭和48年4月11日指定
所   有   地|小   田
所   有   者|妙 見 組

小田・山の上に露出している新生代第三紀層(約200万年前)の浪形岩(貝類の化石で砂礫岩より成る)の素朴な大型の常夜燈で、高さ424㎝である。

この常夜燈に「嘉永三庚戌年十一月吉日、立大工、当所山岡芳良」の文字が彫刻してある。嘉永三年は幕末の西暦1850年に相当する。

川田常夜灯

指定年月日|令和513日指定
所   有   地|西 川 面
所   有   者|個   人

川田常夜灯は弘化4年(1847年)に当時の庄屋であった、妹尾好右衛門によって建立され、金毘羅大権現、吉備津宮、天照皇大神を祀っている。総高6.3mの町内最大級の常夜灯である。

明剱神社 両神像(磨崖神)2軀

指定年月日|昭和63年9月19日指定
所   有   地|下 高 末
所   有   者|明 剱 神 社

明剱神社の境内の、高さ約400㎝の自然石に浮彫してある、約70㎝の不動明王と役行者の二躯。

江戸時代の作と推定され、修験道の開祖と仰がれた奈良時代の「役の小角」を尊んだもので、山伏や氏子の崇拝の的となっていたと思われる。

捧澤寺石門

指定年月日|昭和63年9月19日指定
所   有   地|東 三 成
所   有   者|捧 澤 寺

幅、高さとも約200㎝で、町内唯一の石門である。石門の両端には、空海の選書「秘蔵宝鑰」上巻にある「阿遮一睨スレバ業寿ノ風定マリ、多隷三誦スレバ無明ノ波涸レヌ」という文字が見事に彫られており、真言宗の中本山として栄えた当時の様子をうかがうことができる。

鷲峰山毘沙門天浮彫(磨崖仏)

指定年月日|昭和63年9月19日指定
所   有   地|東  三  成
所   有   者|個       人

捧沢寺から北へ約300mの所に、不正形の巨大な岩石が堆積しており、約400㎝四方の巨岩の自然石に浮彫されている等身大の毘沙門天像。安永6(1777)年8月、浅野又三郎によって浮彫された。

毘沙門天は四天王のひとつで、北方の守護神。別名を多聞天と称した。当時の信仰のほどがうかがわれる。

宮鶴丸宝篋印塔

指定年月日|平成20年2月25日指定
所   有   地|横     谷
所   有   者|  寺

高さ162cmの石製宝篋印塔。宮鶴丸は毛利元清の長男で、天正12(1584)年に12歳で病没したといわれている。この宝篋印塔は、元清が猿掛城から茶臼山城(中山城)に移城した頃建立されたとみられる。

阿育王の塔

指定年月日|平成20年2月25日指定
所   有   地|東 三 成
所   有   者|捧 澤 寺

高さ550cmの花崗岩製の石塔である。東三成の浅野源治兵衛忠明が、捧沢寺24世法恵の代に近江国石塔寺の阿育王の塔を「六分之四」に縮小して建立したもので、明和5(1768)年の銘が刻まれている。石工は片山光重。

アショカ王は仏教を保護して、世界的な大宗教にした、紀元前3世紀頃のインドの王。

花房志摩守一族の墓

指定年月日|平成20年2月25日指定
所   有   地|横   谷
所   有   者|妙 泉 寺

花房志摩守正成は猿掛知行所(5000石)を徳川家康から与えられて入封するが、元和元(1615)年の一国一城令によって猿掛城はすぐに廃城となった。その後、志摩守は江戸にて死去。花房家の五輪塔・宝篋印塔は当初、江戸の池上本門寺に建立されていたが、13代花房正幸によって、昭和45年に東京から横谷の妙泉寺境内へ移された。

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