国指定重要文化財
建 造 物
旧矢掛本陣石井家住宅
指定年月日|
■主屋・座敷・御成門・裏門・内倉・西倉・米倉・酒倉・絞り場・麹室・中門の11棟(昭和44年6月20日指定)
■隠居所・番所・洗い場・風呂場・鎮守社の5棟、家相図1枚(昭和58年6月2日追加指定)
所 在 地|矢 掛
所 有 者|個 人
石井家は江戸時代初期から山陽道矢掛宿の本陣職を務め、宝永5(1708)年以降、代々大庄屋も務めた旧家で、元禄頃から酒造業も営んでいた。
屋敷は旧山陽道に面し、間口約20間(約36m)、敷地面積約960坪(約3164㎡)で、本陣の座敷・御成門と、石井家の主屋・倉・裏門などからなり、矢掛宿では最も大きな町家である。
本陣は入り口に御成門を設け、座敷は上段の間の形式をとり、武家屋敷としての書院造風に、町家の趣を取り入れた江戸時代の建築である。
主屋の間取りは複雑で、片側を通り抜け土間とし、片側に部屋を配した町家の基本的な型が発達、大型化したものとみられる。
酒造関係は米倉、酒倉、絞り場、麹室があり、造り酒屋の雰囲気をとどめている。現在の建物は主に江戸時代末期に建て替えられたものである。
石井家住宅は規模も大きく、建築の質も優れ、付属室に至るまでよく保存されており、街道の本陣としては類例も極めて少なく、価値が高く貴重なものである。
旧矢掛脇本陣高草家住宅
指定年月日|
■主屋・座敷・表門・土蔵・内倉・大倉・中倉・米倉・門倉の9棟(昭和44年6月20日指定)※座敷を表屋に、土蔵を蔵屋敷に名称変更(昭和57年6月11日)
■供部屋・長塀の2棟、古図1枚
(昭和57年6月11日追加指定)
所 在 地|矢 掛
所 有 者|一般財団法人 高草家住宅保存会
脇本陣高草家は、文化12(1815)年に矢掛村庄屋となり、安政5(1858)年には大庄屋となった旧家で、「大高草」と呼ばれた。
屋敷は間口約18間(約33m)、敷地面積約530坪(約1730㎡)で、本陣石井家に次ぐ規模で、東から蔵屋敷(松陰楼)、表門(薬医門)、表屋(座敷)が並んでいる。表屋は入母屋造の本瓦葺、間取りは本陣と同じように、通り土間があり、それが裏門まで続き、表格子は格調高い美しさを醸し出している。建築年代は安永年間(1772~1780)と伝えられているが確証はなく、宝暦8(1758)年より随時増築しており、江戸時代末期から明治時代初期にかけての建物が多い。表門(薬医門)は旧庭瀬藩の矢掛陣屋(西三成)の門を明治初年に移築したものである。
建物の意匠は、全体に落ち着きがあり、備中南部の民家の特色をよく現している。
なお、同じ宿場に本陣と脇本陣が対になって残っていて、どちらも国指定重要文化財は全国で当地・矢掛宿のみである。
絵 画
絹本著色愛染明王像 2幀
指定年月日|明治34年8月2日指定
所 在 地|東 三 成
所 有 者|捧 澤 寺
岡山県立博物館にて保管
左の像が縦109.4㎝、横41㎝。右の像が縦88㎝、横40㎝。
像形は全身赤色、三目を怒らし、六臂にはそれぞれ金剛鈴、金剛弓、拳、五鈷杵、金剛、箭、蓮華を持ち、頭上に獅子頭を戴いて、結跏趺坐する。いずれも南北朝期頃の制作と思われる。
描き方も細緻で、作柄も非常によい。愛染明王は真言密教の明王で、外相は忿怒の情をあらわしているが、内心は愛の明王である。
絹本著色地蔵菩薩像
指定年月日|明治34年8月2日指定
所 在 地|東 三 成
所 有 者|捧 澤 寺
岡山県立博物館にて保管
寸法は縦91.6㎝、横36.2㎝。絹本著色の両袖付額装仕立。これは、左右わずかに形の違う踏割蓮台に乗り、追い風に裾や袖をなびかせながら来迎する地蔵菩薩を動的に描いた図である。
切金の手法や衣の文様をみると、室町時代の制作と思われるが、このようなうまい味わいの仏画は珍しく、大陸絵画の影響も考えられる。
地蔵菩薩は釈迦入滅後、弥勒菩薩が出現するまで、無仏時代に六道の衆生を救った菩薩である。
工芸・考古
銅 壺
指定年月日|昭和31年6月28日指定
所 在 地|東 三 成
所 有 者|圀 勝 寺
銅壺は、身の口径21㎝、高さ15.8㎝、厚み0.6㎝、重さ4.96㎏。蓋の径24.7㎝、高さ8.8㎝、厚み0.6㎝、重さ2.675㎏。元禄12(1699)年、東三成地内の丘陵地(国指定史跡下道氏の墓域)から発掘された。
銅壺の蓋に二重の銘文が巡らされていて、その外圏に「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」、内圏に「銘下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破」と刻んである。この銘文により、吉備真備の父である下道圀勝の母を火葬にして埋葬したものであることが判明した。
吉備真備の祖母を火葬にした時期は、日本において火葬が始まってから間もなくのことであり、当時の下道氏の勢力を示すとともに、当時の火葬による埋葬の仕方を知ることのできる貴重なものである。
史 跡
下道氏の墓
指定年月日|大正12年3月7日指定
所 在 地|東 三 成
所 有 者|矢 掛 町
元禄12(1699)年に東三成の丘陵地から、吉備真備の祖母を火葬にした銅製骨蔵器が発見されて、この地が下道氏の墳墓であることが判明した。その後、この墳墓及び付近から、納骨器、祭器、和同開珎などが発見された。
火葬をはじめてから、一定の敷地を定めて一族の人々を埋葬する今日の墓地形式が、奈良時代初期からはじまったことを示す貴重なものである。
なお、同所に置いてある石櫃はもと近くの唐臼荒神社の庭にあったものを、明治の末に現在地へ移動したもので、銅壺とは関係ないと考えられる。
名 勝
鬼ヶ嶽
指定年月日|昭和5年10月3日指定
所 在 地|上高末・井原市
所 有 者|矢掛町・井原市
鬼ヶ嶽は、美山川の上流、井原市美星町宇戸谷の桜橋付近から、吉備津彦命の鬼退治伝説の鬼ヶ嶽温泉を南下して、矢掛町上高末の青木橋付近までの約4㎞の変化に富んだ峡谷をいう。
この付近には花崗岩が露出しており、方状節理による地形の変化がみられ、川底は平坦面があるかと思えば、滝や滝壺、甌穴などもみられる。また、垂直と水平方向の節理によってできた方形の岩石を積み上げたような、約30mにも達する断崖がある。ダムの景観、渓谷美に合わせて、桜、蛍、河鹿、紅葉、温泉が四季をとおして人々を楽しませてくれる。
重要伝統的建造物群保存地区
矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区
指定年月日|令和2年12月23日選定
所 在 地|矢 掛・小 林
山陽道の宿場町として栄え,街道沿いには江戸時代後期までに形成された地割に,妻入と平入の町家が混在した変化ある屋並みが見られる。江戸時代の旧本陣と旧脇本陣が重要文化財に指定され揃って残るのは全国唯一で,漆喰塗込の重厚な町家等,江戸時代から近代に建てられた伝統的建造物が良く残り,山陽道の宿場町の歴史的風致を良く伝える。
登録有形文化財(建造物)
洞松寺
指定年月日|平成23年7月25日登録
所 在 地|横 谷
所 有 者|洞 松 寺
洞松寺は横谷に所在する曹洞宗の禅寺で、応永十九(一四一二)年に猿掛城主庄氏の帰依を受けたという名僧が再興し、室町時代から江戸時代にかけて寺勢を極めました。江戸時代中期から順次整えられた伽藍全体がよく残り、禅宗寺院の厳粛な雰囲気を醸しています。
国の登録有形文化財に登録されたのは、矢掛町重要文化財の山門を除く、本堂・開山堂・庫裏などの境内の建物全てと、二ノ門、水路石垣・石橋の9棟1基です。